2012年6月1日金曜日


聖武天皇(17)「皇統・皇室を守ることこそ日本国内外の平和につながる」(20120601)

 日本書紀・続日本紀など史書によれば古代に非常に多くの人々が朝鮮半島(後漢・百済・新羅・高麗・任那)から日本に渡ってきて天皇から氏姓を賜り、日本に帰化し、いろいろな職業分野で日本の発展のため尽くしたことがわかる。以下『日本書紀』(岩波文庫)・『続日本紀』(講談社学術文庫)から“”で引用する。

 応神天皇(270310年)十四年の条に“弓月君(ゆづきのきみ)、百済より来朝(まうけ)り。因()りて奏(まう)して日(まう)さく、「臣(やつかれ)己(おの)が国(くに)の人夫(たみ)百二十県(ももあまりはたちのこほり)を領(ひき)ゐて帰化(まう)く」”とある。

 このことの関連して新撰姓氏録の本貫が「山城国」のところに氏族名が「秦忌寸」、姓が「忌寸」、始祖が「秦始皇帝之後也」、記事が「大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。」に「得秦民九十二部一万八千六百七十人。」とある。雄略天皇の御世に92の職業に分かれた部民18670人が日本に帰化しているのである。

 また二十年の条に“倭漢直(やまとのあやのあたひ)の祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、其の子()都加使主(つかのおみ)、並(なら)びに己(おの)が党類(ともがら)十七県(とをのあまりななつのこほり)を率()て来朝(まうけ)り”とある。

 征夷大将軍坂上田村麻呂の父親・坂上大忌寸刈田麻呂は、桓武天皇(781806)の御世に上奏文を奉って“私どもは、もとは後漢の霊帝の曾孫・阿智(あち)王の後裔であります・・(中略)・・阿智王は神牛の教えによって、中国を出て帯方(たいほう)(朝鮮)の地に行きました。・・(中略)・・母の弟の迂興徳(うこうとく)と七つの姓(かばね)をもつ人民を引き連れ、天皇の徳化に帰そうと来朝しました。これは誉田(ほんだ)天皇(応神天皇)が天下を治められていた御世のことであります。・・(中略)・・どうか忌寸の姓を改め、宿禰の姓を賜りますように(以下略)」”と訴えた。桓武“天皇は詔してこれを許可し”坂上など“十一の忌寸の姓をもつ十六人に宿禰の姓を賜った”とある。(『続日本紀(下)』講談社学術文庫・宇治谷孟 全現代語訳より引用)
 
 上記部民について、欽明天皇(539571)の元年八月)に“秦人(はだひと)・漢人(あやひと)(ら)、諸蕃(となりのくに)の投化(おのずからまう)ける者(ひと)を召し(め)し集(つど)へて、国郡(くにこほり)に安置(はべらし)めて、戸籍(へのふみた)に編貫(つ)く。秦人(はだひと)の戸(へ)の数(かず)、総(す)べて七千五十三戸(ななちへあまりいへあまりみへ)。大蔵掾(おほくらのふびと)を以(も)て、秦伴造(はだのとものみやっこ)としたまふ。”とある。欽明天皇は7千53戸に秦伴造の氏姓を与えている。(『日本書記(三)』岩波文庫より引用)

 聖武天皇(724749)の御世に、渡来系の下級官人らが氏姓を賜っている。彼らは既に日本人との混血子孫であったであろう。一組の親が二人子供を生んだとして千年も経てば一世代25年として40世代、つまり単純計算で2の40乗、1兆人の子孫がいることになる。故に、今の日本人の血には多かれ少なかれ古代の渡来人たちの血が混じっている。

 近年、一部の韓国人・在日韓国人・戦後日本に帰化した一部の元韓国籍の人たちが日本人の嫌がる行為・プロパガンダを行っている。それは彼らにとって決して良いことではない。感情の対立は決して良い結果を生まない。天皇は人々の融和統合の御柱である。皇統と皇室を守り、天皇を崇敬し、日本の国旗・国家を尊重することが日本人・韓国人・在日韓国・北朝鮮人の幸せにいつながるのである。

 “神亀元年 五月十三日 次の者にそれぞれの氏姓を賜った。
 従五位上の薩妙観(さつみょうかん)に河上忌寸(かわかみのいみき)の姓(かばね)を、従七位下の王吉勝に新城(にいき)連を、正八位上の高正勝に三笠(みかさ)連を、従八位上の高益信に男捄(おふさ)連を、従五位上の吉宜(きちのよろし)・従五位下の吉智首(きちのちしゅ)にそれぞれ吉田連、従五位下の都能兄麻呂(つのえまろ)に羽林(はねばやし)連を、正六位下の賈受君(こずのきみ)には神前(かんざき)連を、正六位下の楽浪河内(さざなみのかわち)には高岳(たかおか)連を、正七位上の四比(しひ)忠勇には椎野(しいの)連を、正七位上の荊起武(けいきぶ)には香山(かぐやま)連を、従六位上の金宅良(たから)・金元吉にはそれぞれ国看(くにまぎ)連を、正七位下の高昌武には殖槻(うえつき)連を、従七位上の王多宝には蓋山(みかさやま)連を、勲十二等の高禄徳に清原連を、無位の狛祁乎理和久(こまのけおりわく)には古巣(こす)連を、従五位下の呉粛胡明(くれのしゅくこめい)には御立連を、正六位上の物部用善には物部射園(いその)連を、正六位上の久米奈保麻呂(くめなほまろ)には久米連を、正六位下の賓難大足(ひなのおおたり)には長丘(ながおか)連を、正六位下の胛巨茂(こうこも)には城上(きのえ)連を、従六位下の谷那庚受(こくなこうじゅ)には難波(なにわ)連を、正八位上の答本(とほ)陽春には麻田連を賜った。”

 “十月十六日 忍海手人大海(おしぬみのてひとおおあま)ら兄弟六人に、手人(工匠)の名称を除き、外祖父である従五位上の津守(つもり)連通(とおる)の氏姓に従わせた。”

 “神亀二年(七二五)正月十五日 初位下(だいそい)下の漢人(あやひと)法麻呂(のりまろ)に中臣志斐:連(なかとみのしひのむらじ)という姓(かばね)を賜った。”
 
“天平五年六月二日 武蔵(むさし)国埼玉(さきたま)郡の新羅(しらぎ)人徳師ら男女五十三人を請願によって金(こん)の姓とした。”

 “天平六年(七三四)九月十日 唐人の陳懐玉(ちんかいぎょく)に千代連(ちよのむらじ)の氏姓を賜った。”(『続日本紀(上)』講談社学術文庫・宇治谷孟 全現代語訳より引用)