2011年11月13日日曜日

20111113国旗の重み 六十年の時を経て届いた手紙

この動画は、最後まで見た。最後の部分では私は胸が迫り、涙が出た。

私の叔母も夫も男児二人女児二人の4人の子供を遺してビルマ戦線で戦死している。
叔母は96歳で他界している。終戦後まだ若かった叔母は夫の帰還を待っていた。祖母(名前はこの動画に出てくる同じシズエ)は叔母に「堪(こら)えよや」と自分の娘を慰め励ましていたことを子供心に覚えている。
叔母の初盆で大分に帰ったとき、叔母の家の仏間に靖国神社の写真と凛々しい軍服姿の夫の写真が掲げられていた。靖国神社の写真の中には夫の写真が小さく埋め込まれていた。

この動画は11分弱の長さであるが、忙しい人はあまりよく見ないだろうと思う。そこで初めの手紙の部分だけ以下のとおり抜粋し引用させて頂いた。

昭和19615日米軍、上陸開始。

サイパンでの戦況を克明に日記に綴り続けた一人の海軍将校がいた。長田和美海軍中尉はこの翌日の七月五日最後の日記を残している。しかしそれはこれまでのいうに戦況を綴ったものではなかった。

七月四日

命令に従い、私は艦隊司令部に出頭した。いまや司令部は前線と化し、空襲の真っただ中にある。生きて帰れるかわからなかったが、任務終了後無事戻ることができた。

とうとう最後の抵抗をする判断がくだされた。ひと月にわたる激しい戦艦の砲撃と絶え間ない空襲に対抗し、前線のわが軍人、兵士たちは立派に戦った。

このように絶望的な状況下で戦えるのは日本人だけであろう。しかし、敵の圧倒的な車力を目の当たりにして、さすがの大和魂も歯が立たない。サイパン島は小さすぎる。身長百五十センチと小柄な私でさえ隠れることが困難だ。

 あと一日か二日で最期を迎える。何も思い残すことはない。できる限りのことは行った。私の心はおだやかで満ち足りている。これが運命だ。こうなることが決まっていたのであろう。どのように名誉ある最期が迎えられるかのみを考えている。これは私だけではなく、非戦闘員達にも日本人としての名誉ある最期を迎えさせてやりたい。

七月五日

わが妻、シズエへ。

何も言い残すことはない。君と結婚して十七年がたった。

幸せな思い出に満ちた十七年だった。来世への想い出でこれ以上のものはないだろう。

君になんとか恩返しをしたかった。感謝の気持ちでいっぱいだ。私のぶんも子どもたちを可愛がってほしい。私が至らぬために、子ども迷惑をかけるかと危惧している。

今後、日本は本当に困難な時期を迎えるだろう。日本は、あらゆる勇気を奮い起こして

困難を紀来なければならない。

君は優しすぎる。父親を亡くした息子たちのよい相談相手になってやり、彼らを強く、廉直な日本人に育ててくれ。

日本がある限り、暮らしに困ることはないだろう。万一の時が来たら、日本人として名誉ある最期を迎えてほしい。高宮の父、兄、姉、そして板付の義母、義兄、それから「てつお」にくれぐれもよろしく伝えてくれ。

コン、マサ、ヤスへ。

強い正直な日本人になってくれ。将来の日本を担ってほしい。兄弟どうし、互いに協力しあい、全力を尽くしてお母さんを助けてあげてくれ。

コンとマサ、君達は兄としてヤスの面倒をよく見てやってくれ。

この日記を託すモリ海軍中佐はセオの同級生である。機会が出来次第、セオに会いに行き何が起きたのか細かい事情を聴いてくほしい。

敵の戦闘機の砲撃や空襲が頭上を飛び交っている。

これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。

体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。  カズミより

ナガタシズエ様      (昭和十九年七月五日)

(以下経緯要旨)

しかしこのメッセージは家族に届かなかった。皆玉砕したため届けられる人がいなかったのである。

サイパン戦を検証するにあたりNHK渡辺ディレクターはワシントンの国立公文書館に保存されていた二十余りの文書、サイパンに従軍した日本軍将兵の日記や手紙を翻訳した文書を見つけ出した。それが上記の手紙である。

妻の静江さんは九十五歳になっていたが存命 渡辺氏はやっとのことで長田中尉の家族を見つけ出した。20111113国旗の重み 六十年の時を経て届いた手紙

この動画は、最後まで見た。最後の部分では私は胸が迫り、涙が出た。

私の叔母も夫も男児二人女児二人の4人の子供を遺してビルマ戦線で戦死している。
叔母は96歳で他界している。終戦後まだ若かった叔母は夫の帰還を待っていた。祖母(名前はこの動画に出てくる同じシズエ)は叔母に「堪(こら)えよや」と自分の娘を慰め励ましていたことを子供心に覚えている。
叔母の初盆で大分に帰ったとき、叔母の家の仏間に靖国神社の写真と凛々しい軍服姿の夫の写真が掲げられていた。靖国神社の写真の中には夫の写真が小さく埋め込まれていた。

この動画は11分弱の長さであるが、忙しい人はあまりよく見ないだろうと思う。そこで初めの手紙の部分だけ以下のとおり抜粋し引用させて頂いた。

昭和19615日米軍、上陸開始。

サイパンでの戦況を克明に日記に綴り続けた一人の海軍将校がいた。長田和美海軍中尉はこの翌日の七月五日最後の日記を残している。しかしそれはこれまでのいうに戦況を綴ったものではなかった。

七月四日

命令に従い、私は艦隊司令部に出頭した。いまや司令部は前線と化し、空襲の真っただ中にある。生きて帰れるかわからなかったが、任務終了後無事戻ることができた。

とうとう最後の抵抗をする判断がくだされた。ひと月にわたる激しい戦艦の砲撃と絶え間ない空襲に対抗し、前線のわが軍人、兵士たちは立派に戦った。

このように絶望的な状況下で戦えるのは日本人だけであろう。しかし、敵の圧倒的な車力を目の当たりにして、さすがの大和魂も歯が立たない。サイパン島は小さすぎる。身長百五十センチと小柄な私でさえ隠れることが困難だ。

 あと一日か二日で最期を迎える。何も思い残すことはない。できる限りのことは行った。私の心はおだやかで満ち足りている。これが運命だ。こうなることが決まっていたのであろう。どのように名誉ある最期が迎えられるかのみを考えている。これは私だけではなく、非戦闘員達にも日本人としての名誉ある最期を迎えさせてやりたい。

七月五日

わが妻、シズエへ。

何も言い残すことはない。君と結婚して十七年がたった。

幸せな思い出に満ちた十七年だった。来世への想い出でこれ以上のものはないだろう。

君になんとか恩返しをしたかった。感謝の気持ちでいっぱいだ。私のぶんも子どもたちを可愛がってほしい。私が至らぬために、子ども迷惑をかけるかと危惧している。

今後、日本は本当に困難な時期を迎えるだろう。日本は、あらゆる勇気を奮い起こして

困難を紀来なければならない。

君は優しすぎる。父親を亡くした息子たちのよい相談相手になってやり、彼らを強く、廉直な日本人に育ててくれ。

日本がある限り、暮らしに困ることはないだろう。万一の時が来たら、日本人として名誉ある最期を迎えてほしい。高宮の父、兄、姉、そして板付の義母、義兄、それから「てつお」にくれぐれもよろしく伝えてくれ。

コン、マサ、ヤスへ。

強い正直な日本人になってくれ。将来の日本を担ってほしい。兄弟どうし、互いに協力しあい、全力を尽くしてお母さんを助けてあげてくれ。

コンとマサ、君達は兄としてヤスの面倒をよく見てやってくれ。

この日記を託すモリ海軍中佐はセオの同級生である。機会が出来次第、セオに会いに行き何が起きたのか細かい事情を聴いてくほしい。

敵の戦闘機の砲撃や空襲が頭上を飛び交っている。

これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。

体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。  カズミより

ナガタシズエ様      (昭和十九年七月五日)

(以下経緯要旨)

しかしこのメッセージは家族に届かなかった。皆玉砕したため届けられる人がいなかったのである。

サイパン戦を検証するにあたりNHK渡辺ディレクターはワシントンの国立公文書館に保存されていた二十余りの文書、サイパンに従軍した日本軍将兵の日記や手紙を翻訳した文書を見つけ出した。それが上記の手紙である。

妻の静江さんは九十五歳になっていたが存命 渡辺氏はやっとのことで長田中尉の家族を見つけ出した。

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